地学教育

丹沢の化石サンゴ礁発見物語

〜日本列島のプレートテクトニクスを解き明かしたサンゴ化石と高校教師〜

        門田真人先生を偲んで  文:鷲山龍太郎 


1970年代のある日、神奈川県の高校教師・門田真人(かどたまさひと)は、丹沢山地の奥深くを歩いていた。彼は登山部の顧問として、八ヶ岳や丹沢の山々を生徒たちとともに駆け巡りながら、独自に地質の調査を続けていた。自然と向き合い、足元の岩石に語りかけるような日々だった。

山北町のある川沿いでは、緑がかった凝灰岩や、白くごま塩状のトーナル岩が、悠久の地球の歴史を静かに物語っていた。だがある日、門田の目に飛び込んできたのは、それらとは異なる、白っぽく奇妙な岩だった。表面をじっと観察すると、そこには規則的な模様が刻まれていた。
──これは、サンゴの化石ではないか?疑問に導かれるように沢をたどると、やがて彼は巨大な白い岩塊と出会う。おそらく5トンを超える、圧倒的な存在感を放つ石灰岩だった。

「なぜ、こんな山奥に石灰岩があるのか?」

石灰岩とは、サンゴや石灰質の微生物の骨格が海底に堆積してできた岩石である。日本各地に分布し、セメントの原料として都市建設にも用いられている。だが、その岩の表面に波打つような模様は、門田の見慣れた石灰岩とは明らかに異なっていた。

「本州沿岸では見たことがない……南方系のサンゴだろうか?」門田は登山だけでなく、スキューバダイビングの技術も持っていた。真実を確かめるため、彼は沖縄・石垣島の海へと飛んだ。石垣の海に潜ると、キクメイシ、ミドリイシ、ショウガサンゴなど、美しいサンゴが広がっていた。その中に、ひときわ異彩を放つ群体があった。靴べらのように細長く伸びた枝が海底から密集して立ち上がっている。

門田はそのサンゴを真上から見つめ、息をのんだ。 「これだ……!」

その波打つようなヘラ状の形は、丹沢の谷底で見た化石の模様にそっくりだった。ルーペで表面を観察すると、小さな穴がびっしりと並んでいる。サンゴのポリプ、小さな生き物たちの共同住宅だった。

まさに、それは「アオサンゴ」だった。アオサンゴは、現在の日本では沖縄以南、海水温の高い地域にしか生息しない。なのに、なぜそれが富士山にもほど近い丹沢の山中にあるのか?門田は悩んだ。地学の文献をいくら読み漁っても、その謎に答える記述は見つからなかった。

「真実に至るまでの学問の壁は、あまりにも高く、そして厚かった……」

そう感じた門田の脳裏に、ある人物の名が浮かんだ。──東京大学の地質学者・濱田隆士博士である。

当時の日本では、「大陸移動説」や「プレートテクトニクス」といった新しい地球観が海外で注目され始めていたが、国内の学界ではなお「地向斜理論」が主流だった。濱田博士もまた、慎重に新しい説と向き合う立場にあった。門田は意を決して、東京大学を訪ねた。

「濱田先生、私はこの化石が石垣島の現生アオサンゴとまったく同じものであると確信しています。ですが……なぜこんな場所にあるのか、私にはどうしても理解できません」

濱田博士は黙ってルーペを手に取り、化石をじっと見つめた。そして、ある瞬間──その目が大きく見開かれた。

門田はそのときの様子をこう語っている。
「ただでさえ大きな濱田先生の目が、まるで雷に打たれたようにカッと見開かれたんです。あの瞬間を、私は今も忘れられません」

「これは……!」
「丹沢などにあるはずのないものが、ここにある……!」

濱田博士の頭の中で、長年信じられてきた地向斜理論が音を立てて崩れはじめていた。沖縄以南にしか生息しないアオサンゴが、丹沢の山奥に存在する。その事実は、海底火山がプレートに乗って移動し、本州に衝突したというプレートテクトニクスの新たな地球観でなければ説明がつかなかった。かつて南の海で育まれたサンゴ礁が、プレートの運動によって北上し、やがて本州に衝突して隆起し、山となった──それはまさに、地球の鼓動を物語る「動いた証拠」だった。その後、門田と濱田博士は仲間たちとともに現地調査を重ね、年代を示す1500万年前の有孔虫やオウムガイ、その他のサンゴ礁生物の化石を次々と発見した。

「ここは丹沢の谷底だが、まるで、太古の南の海の “化石サンゴ礁”だ……!」丹沢の化石サンゴ礁は、日本列島の誕生を説明するプレートテクトニクス理論を裏付ける、極めて貴重な手がかりとなっていった。  

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