
『稲むらの火 -濱口梧陵の決断-』
文 鷲山龍太郎(濱口梧陵実像から構成)
嘉永7年(1854年)11月5日。
夕暮れどき、紀州・広村(現在の和歌山県広川町)は、穏やかな秋の夕日につつまれていた。
突然、大地が激しく揺れた。
家はきしみ、土蔵は崩れ、地鳴りが村を包んだ。
広村を襲ったのは、安政南海地震。激しい揺れに、人々は何が起きたのかも分からず、ただ身を寄せ合っていた。
その時、ひとりの男が静かに空を見上げていた。
濱口梧陵。
ヤマサ醤油の当主であり、広村の庄屋でもある男。
学問に優れ、海外の事情にも明るかった彼は、これがただの地震ではないと察していた。
梧陵は海を見下ろした。
異様に潮が引いている。
海底があらわになり、魚が跳ねていた。
「これは…津波が来る。」
彼はすぐさま村の人々に叫んだ。
「早く高台へ逃げよ! 津波が来るぞ!」
しかし、村人たちは混乱し、耳を貸さなかった。
「もう地震はおさまった」「海の様子は変だが、まさか津波など…」
疑念と不安が交錯するなか、時間は刻一刻と過ぎていった。
その時、梧陵はとっさに決断する。
村の高台に積み上げていた、自らの田の収穫物――
稲むら(稲束の山)に、火を放ったのだ。
夜の帳が下り始めた山の上に、火柱が立つ。
「火事だ!庄屋様の稲むらが燃えてるぞ!」
村人たちは驚き、慌てて火を消しに走り出す。
家族総出で、火元に向かう人の列ができた。
その時だった。
轟音とともに、巨大な黒い波が海から押し寄せ、村をのみこんだ。
家も船も、畑も道も、すべてを破壊しながら、津波は去っていった。
けれども、稲むらの火に導かれて山の上に集まっていた村人たちは――助かった。
ひとり、またひとりと、顔を見合わせ、生き延びたことに気づいた。
梧陵の機転と勇気が、多くの命を救ったのだ。
だが彼の行動は、それで終わらなかった。
津波のあと、広村は壊滅的な被害を受けた。
住まいを失い、生きる糧を失った人々のために、梧陵は私財を投じて復興に取り組んだ。
堤防を築こう。
もう二度と、津波で村が失われぬように。
そうして、全国から技術者や労働者を集め、自らも土を運び、石を積み、村人とともに防潮堤を完成させた。
それが「広村堤防」。今もなお残る、命を守る証。
さらに彼は、被災者のための職業訓練や学校の設立にも力を入れた。
「教育こそ、未来を守る道だ」と。
梧陵の行動は、やがて国内外に伝わり、ラフカディオ・ハーンによって「A Living God(生き神)」と呼ばれた。
彼は神ではない。だが、確かに人の命を守った男だった。
「稲むらの火」と防災教育への道 解説
- 道徳教材としての執筆と「生ける神」
「稲むらの火」のもとになった実話は、明治時代にラフカディオ・ハーン(小泉八雲)によって「A Living God(生ける神)」という英語の随筆にまとめられました(1897年)。
この物語では、濱口梧陵の人命救助と地域復興への尽力が「生ける神」と称され、道徳的な英雄像として紹介されています。
出典:Lafcadio Hearn, A Living God, in Gleanings in Buddha-Fields (1897)
- 今村明恒による防災教育への活用
地震学者である今村明恒(1870–1948)は、「稲むらの火」に登場する濱口梧陵の行動を、津波からの避難行動の教訓として評価し、自らの地震・津波研究とともに紹介しました。
特に彼の著書『地震と津波』の中で、過去の津波被害を記録・教訓化し、「逃げ地図」や高台避難の重要性を唱えています。
出典:今村明恒『地震と津波』(岩波書店、1934年)
- 減災教育と河田惠昭博士の関与
現代の防災・減災研究の第一人者である河田惠昭博士(関西大学社会安全学部)は、「稲むらの火」の逸話を“先人の知”として現代防災教育に活かすべき教材と位置づけています。
彼は「稲むらの火」から学ぶ命の守り方として、「避難行動の初動」「自助と共助の意識」の重要性を挙げています。
出典:河田惠昭『減災社会をつくる:防災から減災へ』(岩波書店、2009年)
出典:河田惠昭(編)『災害教育の教科書』(関西大学出版部、2012年)
- 国語教科書への掲載
「稲むらの火」は、戦後から現代にかけて複数の国語教科書に掲載されてきました。
近年では、東京書籍や光村図書の小学校教科書においても採用され、道徳教材としてだけでなく、防災・減災意識を育む題材として使われています。
また、2021年度からの新学習指導要領でも、地域社会とのつながりを学ぶための国語教材として評価されています。
出典:光村図書『小学校国語 教師用指導書 5年』2020年度版
出典:文部科学省『小学校学習指導要領解説 国語編』(令和元年)
伝えられる教訓
稲むらの火は、ただの逸話ではない。
それは、咄嗟の判断力、犠牲を払って他者を守る勇気、そして災害の後も人々の暮らしを支える“真のリーダーシップ”を教えてくれる物語である。
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