東京大空襲体験者の証言(浅草)

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1945年3月10日の東京大空襲では、関東大震災での死者10万5千人に匹敵するか、それ以上の犠牲がありました。殺人が政府の作戦として行われる戦争こそ、最大の災害です。鷲山の祖母は関東大震災を本所で生き残り、その18年後に、祖母と母は東京大空襲を浅草で生き残ったっために、私の生があります。90歳となった母の空襲体験を伝承として保存・公開したいと考えます。

2023年度 東京大空襲犠牲者追悼集会 体験者(鷲山の母)の証言
    (浅草で被災し生存 当時12歳) 

時 間 2023年3月10日13時開会

場 所 隅田公園言問橋際 東京大空襲犠牲者追悼碑前

証言者 鷲山洋子(わしやま ようこ) 1933年1月10日生まれ

東京大空襲(1945年3月10日)当時12歳 国民学校6年生 集団疎開から3月3日帰郷 

浅草・隅田公園で家族と生存  浅草小学校で避難生活  2023年3月現在90歳

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YouTube証言動画  平和な世界になることを願って体験談を語り継ぐ・・東京大空襲
               (証言テキスト入り)

証言動画:2023年度東京大空襲犠牲者追悼集会体験者の話 
       式典当日(2023.3.10撮影10分編集なし iCloud)

別録動画:東京大空襲体験の話(動画7分)
            
生存できた現場の水上バス浅草発着所付近にて(2023.3.3撮影 iCloud)

鷲山洋子の空襲体験証言資料

証言原稿原文東京大空襲体験者の話(浅草隅田川にて生存:当時12歳)

小学生教材用:東京大空襲を生き抜いた6年生女子の体験(浅草で被災)
          (全文ふりがな付き)

新聞紹介記事

産経新聞記事(浅草小学校訪問を取材・紹介していただきました)

東京新聞記事(式典当日の様子を取材・紹介していただきました)

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78年前の出来事を鮮明に記憶している部分を証言として伝える

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「母に叩き起こされ、狭い路地を見上げると、大きな飛行機が屋根に乗りかからんばかりに飛んでいる・・」

浅草小学校の教員の手記にある、B29の一機一機が「座布団大」に見えたということと一致する。後続機が焼夷弾を落としやすくするために、まず超低空で突入して、「エレクトロン焼夷弾」を投弾、その閃光の円内を攻撃区域として本隊に伝える役割を果たしたパス・ファインダー機(投下誘導機)であろう。

東京大空襲・戦災資料センターにて

焼い弾を見る。B29は325機出撃 焼い弾 38万1300発、1,665トンを民間人の住宅街に投下。戦争の残酷さは昔も今も同じ。

「防空頭巾」をかぶり、赤十字マークのバッグを肩に・・このような服装で避難した。
 東京大空襲・戦災資料センター

南風が強い日だったため、火災は延焼拡大。松屋デパート前の交差点で前に進めないほどの烈風に遭遇。浅草小学校南側で発生した火災旋風に拭き込む風と思われる。火災旋風は風を吸い込み、上空に巻き上げるので、ガランガランと大きな物体が上空を舞うのを目撃している。

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証言を説明する浅草の地図 被災地は観光地として内外の人々に馴染みのある浅草


生存できた東京都観光汽船浅草発着所付近での証言 
今はスカイツリーとビール会社のオブジェが対岸に見える場所

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戦災後の浅草の様子 松屋デパートは5日間燃えるが建物が現存

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火の粉が混じった熱風の中祖母が水を汲んで防空頭巾の上からかけ生き残った現場


謝辞 

この度、母の証言を伝える貴重な機会をいただきました東京大空襲犠牲者追悼・記念資料展実行委員会皆様と 実行委員長 川杉元延様に感謝申し上げます。

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実行委員長 川杉元延様挨拶文    川杉実行委員長挨拶動画

台東区立浅草小学校校長 大石京子先生には、3月3日に母と面会し、貴重な資料とお話をいただきました。お礼申し上げます。

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2023.3.3 浅草小学校校長室にて 戦災当時の校舎の階段手すりを前に

母にとっては、被災後、避難所の浅草小学校に避難。一週間ほど避難生活をしていたのですが、「毛布で寝起きしていたこと、おにぎりがおいしかったことのほかは記憶がない。」ことが証言の原稿をまとめる上で、悩みでした。
 そこで、浅草小学校大石京子校長先生に電話で相談させていただいたところ、追悼集会の一週間前に面会のお時間をいただきました。学校に残る当時の記録や記念誌から、次のことがわかりました。

・学校職員と避難して来た人々とで協力して、教室のカーテンを外し、火災対策をし実行。南側民家から火災旋風と思われる火災が迫って来たが、エンジンポンプを起動させて、プールの水から放水するなど奮戦して、校舎を守ることに成功。
(母たちが遭遇した松屋デパート前の烈風は、この火災旋風に吹き込む風だったと考えられる。)

・焼け残った校舎は貴重な避難所となり、10日の朝は1万人を超える避難者が「雲集」とある。
・その後、行政職員が来て分散避難が行われ、10日の収容者は2400人と記録。その中に、母たちがいた。
・母が覚えている「おいしかったおにぎり」は、竹橋連隊からトラック二台で運ばれて来た。二万五千人分あったとの記述もある。
・その後、縁故疎開が勧奨され、縁故無き人は、他県への疎開が行われたため、一週間後には、学校での避難者は数十名になっていった。
・母と家族は、店のお客さんだった知人宅で生活することになり、浅草を離れた。なぜ親戚でもない知人宅に生活できたのかも謎だったが、そうした「勧奨」があったとすると理解できる。


 あの火災の中に浅草小学校が焼け残っていた理由、避難者の動向、おにぎりのことなど。母にとって空白だった浅草小学校での避難生活の実情がわかり、原稿をまとめることができました。

 学校職員が、避難民、行政職員、軍とも連携して、消火活動、避難所運営に当たり、記録を残していることは、今後想定される首都直下地震への学校の役割、防災体制を考える上で参考になります。

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浅草小学校の校門前で大石京子校長先生と   
ここに一週間避難生活をした78年前の国民学校6年生 2023.3.3撮影

証言原文・監修     鷲山洋子
YouTube動画編集   堀池紀行(洋子の弟:当時4歳で空襲を体験)
支援・HP作成            鷲山龍太郎(洋子の長男)

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